TAILOR ROSY INTERVIEW

製品づくりを担ってくれているTAILORのRosyにインタビューしてみました。これまでの生い立ちや仕事をする上で大事にしていること、これからの展望など、盛りだくさんの内容です!

現在の現地の状況・コロナの影響

Q. まずあなたについて教えてください。

A. 今は私含めて7人家族です。結婚した後2人の娘に恵まれ、義理の母が一緒に住んでいます。長女はフィジーのバヌアレブという別の島に住んでいて、次女は今一緒にいます。夫が一緒に店をやっていて、義理の母は今家にいます。

以前私は政府系の工場で働いていて、夫も同じ職場で縫製機械の技術者として働いていました。各家を回って機械の修理をする仕事です。そのおかげで機械が家に置かれていて、それを使って私も家で小さなものから縫って作ることをし始めたんです。ドアマットとか、家にある小さいものですね。そこから、服や子ども用製品を作ったりし始めるようになって、自分の店を持つことにも興味を持ち始めました。縫製機械は1台しかなかったんですが、人を雇い始め、だんだん製品の質やデザインの良さから、店が有名になってきたんです。新型コロナウィルスが流行る前は、9名のスタッフを雇って、地元の人々のオーダーを元に製作するお店を運営していました。布の端切れを利用したエコフレンドリーなバッグやドアマットなどを作ったりといったことも、コロナが流行るまでは行っていました。

2008年に町に2台の機械だけでお店を開き、2012年には8名のスタッフと共に店を大きくし機械も増やすことができました。そんな中、2015年に自動車事故に遭って、それが人生に大きな影響をもたらすことになったんです。

Q.車の事故ですか

A.はい。その頃政府の工場向けに仕事をしていて、その仕事のために50~100人位の人を雇える見込みで、すべてを計画立てていたところで、事故に遭ったんです。そのため全てを止めなければならなくなりました。私は1年もベッドに寝たきりになってしまったので。その間誰の力も借りずに、夫が店を切り盛りしてくれて、私の看病もし、娘の面倒も見てくれました。同時に私の義理の母も精神的な病気も抱えていたので、夫は大変だったと思います。そうした状況で、全てがゆっくりに、そして振り出しに戻ってしまいました。手術を受けるためにインドに2018年に行き、2019年に戻ってきました。今になってやっと全ての手術が完了しました。なので、私たちのビジネスを再開しようと家族で話していたんです。

Q. 最初にお会いした時、インドに行く前、ケガをしていた時だったんですね。全然気づきませんでした。

A. あの頃、私はまっすぐ立ったり、きちんと座ることができませんでした。体を自由に動かすことができなかったんですが、なんとか立っていたので、あなたは気づかなかったんでしょうね。できるだけ、人にケガをしていることを見せたくなかったんです。働き続けなさい、落ち込むな、強くいなさい、と自分に言い聞かせていたんです。”怪我人”にはなりたくないという気持ちが強かったです。

Q. 強くあろうとしていたんですね。今ビジネスの状況はいかがですか?

A. この新型コロナウイルスの流行でとても大変な状況です。流行する前は大丈夫で順調だったんですが、今は特に店の賃貸料を払うことにとても苦労しています。それに、給料を払うのも大変なので、スタッフを減らさざるを得なくなってしまいました。そんな中、Fizと出会うことができて、本当に良かったと思っています。お店に来てくれた時に状況を話して、Fizのアイディアを話して、これはやるしかないと思ったんです。

現在は、地元のお客さんもほとんどいません。コロナによって人が集まることも制限されていて、多くのホテルも営業休止になっています。これまでは、ホテルの従業員の方々のユニフォームや、結婚式などの家族の集まり用の服や伝統服を作ることが多かったのですが、こういったビジネスが、コロナの影響を受けて激減してしまいました。たまにお客さんが来て、誕生日の集まり用の服をオーダーしてくれたりするのですが、本当に少しだけのオーダーです。なので今は私以外の2名のスタッフに給料を払うのと経費の支払いができる分ぐらいしか賄えません。今は6時以降は外出制限があるのですが、それがなくならない限り、人々は着飾って出かけたりしないでしょうね。それが戻ったら、私たちも元通り仕事できるようになると思うのですが、、、政府によるコロナウィルス対策のための政策は必要だとは思います。人と人とで距離を取る、マスクをする、消毒をする、建物に入る時は体温を測るなど、政府がルールを設定していて、それを守ることは当然だと思っています。ただ、結婚式などの行事が禁止され集まりができない、ということは、我々のビジネスに大きな影響を及ぼしていることも事実です。そういった集まりがなければ、人々は新しい服を作ろうと思いませんから。だから今、お客さんがものすごく減ってしまっているんですよね。

Rosyのこれまで

Q. もう少し詳しくあなたについて教えてもらえますか?

A. 私は政府系の工場を退職して、夫は縫製機械を持っていたので、私は家で縫物をするようになりました。その時、縫製の知識はなかったのですが、子供服やバッグ、ドアマットなどの小物から縫い始めました。例えば、クッションカバーなど家に置く小物などですね。その後、大人の服も縫い始めました。フィジーでは、スルチャンバーと呼ばれる、フィジーの伝統的な服があります。それから、ブラシャツと呼ばれるものですね。そういったものを縫ったりして、町の一角に小さなお店を始めるまでになりました。そこはとっても小さな場所だったのですが、売れるものであれば、なんでも縫いました。フィジーの政府系の工場を立ち上げたいという目標があったので、生地を買ったりしてビジネスを成長させていきました。政府系の工場を運営して、60~100人の人を雇用したり、海外からの大型発注を受けたりするのが目標でした。そのための機械を準備したりしていた矢先、私は2015年に車の事故に遭いました。2016年は1年中寝たきりでしたので、1年を無駄にしてしまうことになってしまいました。2017年もまた無駄になってしまいました。海外で手術を受けるためにさらにお金が必要になったからです。事故に遭って、私の体の59%がダメージを受け不自由になってしまいました。助けがなければ歩くことができず、おしりは全てリプレイスメントが必要でした。その手術はフィジーでは行われていなかったので、海外に行かなければなりません。財政的にとても苦しかったですが、なんとか2019年にインドに行き手術を受けることができました。その手術は上手くいったのですが、さらに他器官へのダメージもあり、胃の手術も受けなければならず、それもまた費用がかさみました。その後フィジーへ戻ってきて、また1年寝たきりになってしまいました。ですがその間に、自分のお店をより大きい場所に移すことにしました。その時、私は「このままベッドに寝続けていたくない」と自分自身に言い続けました。自分に対して、「私は59%不自由な体で、もう歩くことはできないんだ」なんて言いたくなかったのです。特に、私の縫製の仕事に対する情熱が私をベッドから起こし、家から出してくれたのだと思います。私は仕事を再開し、お店を移すための、より大きな場所を見つけることができました。少しずつビジネスが上手くいきはじめ、また日常が戻ってき始めたところに、パンデミックが起きてしまったのです。

Q. 車の事故は、どこで遭ったのですか?

A. 事故はナブアというところで起きました。首都のスバの近くです。早朝の事故でした。私はスバから、住んでいるラウトカに戻るところでした。朝5時頃だったと思います。

Q. あまりにも大きな事故に遭ったりしたら、もうダメだ、何もできないとネガティブになってしまうのも当然かと思います。事故の直後、何を思いましたか?

A. 最初医師からもう正常には戻れない、59%がダメージを受けていて、もう歩くことはできないと伝えられた時、何もかもが終わった、今後一生寝たきりになるんだと思いました。でも、私の夫がお見舞いに何度も来てくれて、お店も切り盛りしてくれました。私はおむつをして寝たきりになっているのに、面倒を見てくれて、同時にビジネスもなんとか続けてくれたんです。私はベッドに寝ながら、うちに来てくれたスタッフに布の切り方を教えてあげたんです。想像してみてください。私はベッドに寝ていて、私の夫とそのスタッフがそばにいて、私がどう寸法を測り、布を切るかを教えているんです。そうすることで、私は元気づけられました。そして、これをしたいし、これをやっていくんだと思いました。彼らが布を切ったりするのを見ていて、これこそが私の仕事だと思ったんです。

時々ベッドから起き上がることができなくて、泣いてしまうこともありました。8か月経って、やっと夫や娘の介助なしにベッドから起き上がることができました。足を持ち上げてベッドから起き上がることができましたが、体を曲げることも、立ち上がることもできない。ちょっとずつ練習して、少し布を切ることができるようになりました。何とか1着ドレスを作ることができた時、本当に嬉しくて、さらに元気づけられました。その時夫に、店に連れて行ってもらうようお願いしました。少なくとも、お店で座って、管理することはできると思ったのです。それから、何とかお店に行って、スタッフの管理を始めました。実は事故の後、店のスタッフは減ってしまいました。店を閉めなければならない時があり、スタッフに退職をお願いするしかなかったのです。ですから、その後1名でも2名でも戻ってきてくれたスタッフとはまた一緒に働くことにして、作業はできなくても、彼らを見守ることはできました。そうすることで、不自由な体を忘れることができたので、だから、あなたがお店に来た時、私がケガをしていることに気づかなかったのでしょうね。そもそも、私は人に、自分の体に不自由があることを知らせたくなかったですし、歩かず座ってさえいれば、だれも気づかなかったのです。私が話して始めて気が付く人が多かったですね。

Q. なるほど、旦那さんの愛が復帰のきっかけになったんですね。

A. そうですね、子どもたちの愛と共に。私の2人の娘はまだ勉強しなければならないし、学校に行かなければならないので、彼らをサポートしなければと思っていましたので、静かに寝ているなんてできなかったんです。縫製の仕事は毎日できるものなので、その日々の仕事が私に幸福をもたらしてくれたのだと思います。

Q. とても素敵な話ですね。大変な状況にある中、家族や旦那さんの力でさらに強くなれたんですね。もうこれ以上何もできない、と思ってしまうことはなかったのですか?

A. ありませんでしたね。できないと思ったことはないです。素敵な服を着ている人が近くを通ったら、目が離せなくなって、あのドレスを作りたい、と思ってしまうんです。何かやりたいと思った時、私はできないと思うことはありませんし、いつも、自分ならもっとできる、と自分に言い聞かせるんです。

Q. 素晴らしいですね。私自身女性として、妊娠出産を経験して体調が悪いこともありました。でもそのツラさも、あなたの話を聞いて吹き飛びました。いつもポジティブで、なんでもできると思うことができるのですね。

A. 不可能なことは何もないんです。事故の時、ものすごい痛みを経験しました。それは痛かったです。でも痛みは私の友達だと思うようにして、何とか慣れようとしていたんです。みんな、「痛かったでしょう?」と聞くんですけど、私は「いいえ」と答えるんです。痛いのにもう慣れちゃったんです。母になり妊娠出産も2度経験しました。あなたもお母さんなら、もう既に強いんです。強い女性だけが、出産を経験できるんです。

Rosyの仕事の流儀

Q. あなたのモットーや方針のようなものはありますか?特に製品を作ったりお客さんと接する時に大事にしていることを教えてください。

A. まず1つ目に、キャリアは私にとって旅のようなものだということです。旅は苦しみ、もがくことがなければ成しえることができないものです。

2つ目は、何事もベストを尽くすこと。そうしてたとえできなかったとしても、何のせいにもできず、自分のせいにもできないようにしたいのです。この2つが、これまで45年生きてきて経験してきたことから、今持っている私のモットーです。

Q. 改めて聞きたいのですが、あなたは仕事は好きですか?

A. はい、大好きです。例え大怪我を負っても、仕事をすることで、ベッドから起き上がり、家にひきこもることなく生き続けることができた。この仕事があるから頑張れるし、これからも続けていきたいです。

Q. 仕事をやめてしまいたいとか、お店を閉めてしまおうと思ったことはありますか?特に事故の後はどうでしたか?

A. 答えは「いいえ」ですね。自分自身から店を閉めようと思ったことはありません。ただこの新型コロナの流行は、店を閉めることを考えるしかありませんでした。フィジーにもウィルスが入って来た時、とても苦しみました。フィジーではビルの家賃を払うのがとても大変なんです。もしこのビルから立ち退かなければならなければ、家で縫製の仕事をしようと思っていました。少なくとも家から仕事をする、というのがバックアッププランとしてありました。事故の後もそうです。ですから、もう仕事ができない、とは考えてはいませんでしたね。確かに最初、「怪我をしたから、体は不自由だし、もう何もできない」とは思いましたが、すぐに復帰しようと思ったんです。

Q. ショップオーナーとして、一番大変なことはなんですか?

A. 一番大変なのは、まずは社員を抱えていて、彼らの給与をきちんと期日を守って払わなければならないことを、常に意識しておかないといけないことです。そのためには、ビジネスにおいて必ず利益を出せるように考えないといけないんです。次に、布地や縫製小物を買ったり、器具や機械のメンテナンスなどの費用のために収入を確保しておかないといけないということです。それでも、布が届かないとか、お客さんが代金を払ってくれないとか、トラブルが発生することもあります。そのために、布をストックしておくとか、社員の支払いをやりくりするとか、そういったことを考えないといけないのが、とても大変な部分ですね。経理的な部分でしょうか。なので、そういったことのために自分の時間を使わないといけないんですよね。ビジネスマンとして、プライベートな時間の大半はそういった仕事に費やされてしまいますね。24時間仕事のことを考えなければなりませんが、そのために自分自身を捧げる必要があると思っています。

Q. ちょっと過去のことに遡りたいのですが、学生の時に、今のようにお店を経営しているだろうと思っていましたか?

A. いいえ、まったく考えませんでした。学生の時は、学校の先生になろうと思っていたんです。ですが、父は農業をしていましたし、子どもを学校に送るお金をやりくりするのはとても厳しかったんです。なので、私は先生になるのを途中であきらめて、政府の工場で働き始めました。最初は学校の休暇中に働いていました。そうすれば、学校に通うお金を稼げると思ったんです。私には3人兄弟がいて、そのうちの一人はとても重い病気を抱えていて、入退院を繰り返していました。それもあって、工場での仕事を増やしていったのですが、じきにその仕事が面白いと感じるようになってきたんです。学校で先生になる勉強をするのと同じように、工場で働きながら身に着けたことが、自身のスキルになって、小さなことから縫製の仕事を始めて、自分でビジネスを始めればいいと思うようになってきました。そうすれば誰かの下で働く必要もないし、と考えるようになって、 その方向に進むようになりました。

Q. 店を持つというのは、とても大きな目標でさまざまな努力を経て実現されたと思うのですが、どのように成し遂げたと考えていますか?また、ビジネスオーナーとしての今のあなたは、何がそうさせていると思いますか?

A. 政府の工場を離れた後、技術職だった夫が持っていた機械のパーツを使って家で小さな縫製から始めました。そういった小さなことからやっていくうちに、自分がこの分野について習得がとても速いなと感じたんです。なので、数人に製品を縫ってあげると、とても良い反響やコメントをもらうことができ、とても幸せだなと感じました。そこから、色々な注文を頂くように広がっていって、数人雇うまでになりました。そしてさらにその雇った社員へ教えていくうちに、教えることも好きだなと気づきました。昔先生になるために勉強していて、教えることを目指していましたが、このテイラーの店で教えることも、教師と生徒のような関係だし、職業訓練の実習をしているようだと考えるようになりました。ビジネスをしながら、社員の面倒を見ていて、彼らは私に教わりに来ている自分の生徒のように感じているんです。

Q. あなたは強い女性だなと、これまでの話から感じるのですが、そのようにいられる理由、モチベーションの源泉はどこにあるのでしょう?

A. 私のモチベーションの元は、娘です。私の娘は日本の慣習にとても興味があって、日本の映画を見ることがとても好きで、家に帰ると彼女は私に日本語で話しかけてくるんです。そして「日本のお客さんへの製品を作っているんだから、お母さん、少なくともちょっとは日本のことを知らなくちゃ」って言ってくるんです。なので、そのおかげで日本のことに興味を持つようになりましたし、モチベーションもあげてくれるんですよね。彼女から学ぶことは多いです。10代の意見として話を聞くこともありますし、彼女はいつも喜んで助けてくれます。

Creativityの源泉は?

Q. 製品についての相談をするとき、いつも新しいアイディアを持っていて、さらに良い製品を作ろうという姿勢を感じました。アイディアの源泉はどこから来るのでしょうか?

A. 座って休んでいる時、いつも頭の中で製品のデザインについて考えてしまうんですよね。いつもお客さんの要望に合うようなものを作りたいと思っています。お客さんが何を好むかをいつも考えないといけないですよね。あとは、自分が女性だということも良い影響があると思っています。女性の視点から、何が好きかとか、製品の質はどうあるべきかとか考えられますからね。製品を作る際に、ちょっと労力をかけて、リソースを割いて強度を増したり、おしゃれにしたりして、お客さんがより欲しくなるようなものにしています。また、もう少しデザインを工夫したり、他とはちょっと違うようなものを作って、さらに魅力的なものにするように心がけています。今回使用しているようなタパ柄を使用したフィジーらしい製品にすることもそうですよね。フィジーで雇用をさらに生み出せるように、フィジーのリソースを使った製品をもっと作っていきたいと思っています。そうすれば、フィジーの人にもっと貢献できるようになると思います。

Q. 私がタパ柄に興味があると言った時、積極的に話に乗ってくれて、色々な製品を作っていこうと率先してくれましたよね。

A. タパ柄に興味があると言ってくれたおかげで、タパを使用した製品をたくさん作りたいと思えたんです。特に、日本人のあなたが、フィジーの外から関わってくれたというのは、私にとって初めての経験でした。自分にとってとても良い機会だと思いましたし、このチャンスを逃したくなかったんです。その時、このプロジェクトについて、一生懸命働かなくちゃと思いましたね。

日本人との協業・クラウドファンディング